25 大和スイカ

大和すいか「やまとすいか」
(ウリ科スイカ属)
主な産地 天理市、桜井市、田原本町
栽培面積(3ha)  

 寛永時代の末(1640年頃)に、中国から日本に渡来したといわれるスイカは、しだいに各地に普及し、江戸時代の後期になると商品作物として全国に広まっていきました。 奈良には、スイカの歴史を語る上で全国的にも貴重な資料が存在しています。 天保13年(1842)、磯城郡川西町の糸井神社に奉納された絵馬の一端には、神社の境内に店を出し、樽で冷やしたスイカを切り売りされている様子が描かれており、すでにこの頃には、大和の地で販売用のスイカ栽培が行われていたことがうかがえるのです。この絵馬は、糸井神社境内で「なでも踊り」と呼ばれる雨乞い願満の踊りを描いたもので、当時の夏祭りの様子が生き生きと描写されており、近世末の村落と民衆の姿を伝える貴重な資料として平成6年に奈良県の指定有形民俗文化財に指定されています。
 奈良では明治の初めに、綿に替わる換金作物としてスイカの栽培が始まりました。最初に栽培されていたスイカは、天理市周辺に和歌山県より持ち込まれた果実の大きな「紀州スイカ」と呼ばれるもので、着果の数も少なく、品質も良くなかったと記録されています。そして明治以後、その後のスイカの歴史に大きな影響を与えた一人の人物が登場します。山辺郡稲葉村(元天理市)に生まれた巽権治郎氏です。権治郎氏は、家業の農業と共に、その当時安堵や川西の村々で盛んに生産されていた灯芯を仕入れ、遠く尾張や三河まで行商に出かけていました。そんなある夏の日、行商先の三河の国(愛知県)の農家で休憩した際に、その家の主人から勧められたスイカが鮮やかな紅色と美味であったため、自身が食したスイカの種を50粒ほど小袋に入れて持ち帰りました。農業を営みつつ、行商を通して得た新しい情報を自身の郷里に取り入れたいとひらめいた巽権治郎氏の心を想像すると、胸が躍るような気持ちだったのではないでしょうか。村に戻った権治郎氏は、早速その種を蒔き7、8 年試作を重ねて栽培法を研究したといいます。そうして「権治西瓜」が誕生し、それは瞬く間に大和盆地の各地に広がり当時の一時代を築きました。 
 奈良の気候風土に適応して各地で栽培されていた権治スイカと明治35年に県の技術センターがアメリカから導入した「アイスクリーム」という品種とが自然交雑することで世に言う「大和西瓜」が誕生しました。そして大正12年、奈良県農業試験場は、より良いスイカの品種を生み出すためにスイカ品種改良事業を開始します。大和西瓜の中から優良な品種を選抜することで、大正15年には「大和2号」、「大和3号」、「大和4号」という近代スイカの基礎となる品種を育成しました。様々な取り組みが実を結び、大和西瓜は昭和の初期には生産のピークを迎えるのです。 
 その後も昭和30年代までは、大消費地である大阪に近い地の利を生かして全国有数の生産地であった奈良のスイカ。しかし、輸送手段の発達による流通形態の変化よって転換期を迎えることとなりました。熊本県をはじめ千葉県、山形県などの生産規模の大きな他府県に産地は移り変わっていったのです。奈良県のスイカに対する、育種の財産と高い技術力は民間の苗種会社に引き継がれ、現在でも国内で生産されるスイカの種の多くが奈良県内の種苗会社から供給されています。